go-ka  ゴカ なスローライフ

農的暮らし?をする予定。日の出と共に起き、畑で野菜を作り、・・・たまに、パンなど作り、温泉に入り?。。。まだまだ、予定は未定です。協力者、求む!!!

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・ロハスとエコロジーは違うの?
エコロジーは「我慢する」という側面があるのに対して、「無理なく続けられる自分なりのエコ」を実践するのがロハス。電気製品を前にして、エコは「買わない」っていう判断もあるが、「ロハス」は「自分の生活を便利に、豊かにするものだから」という姿勢で、より消費電力の少ない方を選択する。

・ロハスの5つのカテゴリー
自然エネルギーなどの「持続可能な経済」
有機野菜などの「健康的な生活」
ヨガや瞑想などの「自己開発」
漢方や整体などの「代替医療」
エコツーリズムなどの「環境に配慮した生活」
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信州といえば、漬け物。漬け物といえば、野沢菜。
最近は、スーパーとかでも、漬け物用のが一杯売っています。畑にでれば、多くの人が菜っ葉の収穫をしています。
うちらも、今日、収穫をしました。そして、洗って、漬けました。
冬は、野沢菜と沢庵で、生きるってオーナーは、豪語しています。
昨日、送迎に行こうとしたら、タイやが突然、パンクしました・・・
タイヤ交換・・・。苦手です。車のことがさっぱりわかりません。。。
とりあえず、説明書をだして、スペアタイヤの位置、工具の位置の確認。それで5分・・・
はずすのに、5分。。。結局、25分。F1ドライバーのチームは8秒とかで変えるのに・・・。なんでも、やらないと、わからないものって、実感した瞬間。
まだまだ、経験不足です。
日々勉強・・・

「クジャク」

ひろげた はねの

まんなかで

クジャクが ふんすいに

なりました

さらさらさらと

まわりに まいて すてた

ほうせきを 見てください

いま

やさしい こころの ほかには

なんにも もたないで 

うつくしく

やせて 立っています               まど みちお作
「人間は全ての関係性の中で生かされている。くもの巣のようにはりめぐされた選択肢の中で一本の道しか一人の人間は歩けない。それを人生という。だからこそ、自分に恥じない道を自信を持って進んでいく。それそれが正しい選択をすれば素晴らしい未来が展開される」

レッド・クロー

今夜はロータスカフェでライブがありました。南インドの古典舞踊とシタールとタブラ。
たまに、外にでて気分転換。とても良い刺激でした。自分は楽器ができないので、ダンスとか、楽器出来る人が羨ましいです。ロータスカフェはとても、心地よい、空間です。
前に、体験できていた下谷さんが、三日間手伝いにきてくれました。バイトしていたタイ料理レストランが店をたたむことになったらしいです。
土産に、グリーンカレーとレッドカレー。
しいたけ、大根、あげ、人参、ゴボウを重ね煮して、白菜をいれて、ペースト、ココナッツミルクをいれて、煮込みました。あと、特製リンゴジャムもいれてみました、口当たりはやさしく、後から、ぴりっとくる感じでした。ご飯も、カレー用に焚いてくれて、良いまかないになりました。ありがとう!また、いつでも、遊びにきてちょ。
米の脱穀。足踏みです。ゴレンジャーでした。 
「うさぎ」

うさぎに 生まれて

うれしい うさぎ

はねても

はねても

はねても

はねても

うさぎで なくなりゃしない



うさぎに うまれて

うれしい うさぎ

とんでも

とんでも

とんでも

とんでも

くさはら なくなりゃしない

                           まど みちお 作

今日も、無事、一日終わりそうです。日々、多くの出会いがあり、生かされている自分がいます。感謝です。
カボチャをくり抜いて、中に色々詰めて、石釜で焼いてみました。朝ご飯で残ったマカロニを中心に、リンゴジャム、塩、マーガリン・・・等々。
じっくり、ゆっくり、やさしい、味です。カボチャの丸ごと。身土不二って、感じですかね。。。
『山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。』
夏目漱石
紅玉を一杯、買ってきました。
リンゴジャム。りんごを細かく切って、鍋にいれる。塩をふる。蓋を閉める。火にかける・・・how simple!

加工ってやるまでが、面倒って思うけど、やり始めたら面白くなってきます。瓶に詰めて、並ぶのが好き。
リンゴの優しい味。甘すっぱい、それでいてジューシー?
自然の味は、ほんとうにやさしいし、あきません。
  わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない
  わたしは世のおわりまで、いつもあなた方と共にいます
  与えられるよりも、与えることを
  愛されることよりも、愛することを

あと、シャロムの営業も2週間っとなりました。。。早いものです。一日、一日、を、悔いのないように頑張りたいです。
11月13日はmanaちゃんの10才のお誕生日。
自信はなかったけど、あずきとカボチャのタルトを作ってみました。

あずきをたいて、普段は砂糖を使わないんですが、まなちゃんがあずきが好きなのでてんさい糖を使いました。
カボチャをリンゴジュースで煮て少しレーズンも入れます。ペースト状にします。
生地の上に、あずきと、カボチャを重ねて、オーブンで焼きました。

なかなか、難しくいつも、自己流なので進歩がない感じです。
もう、ちょっと、きれいに、おいしくできたら、いいなって常日頃、感じています。

お誕生日、おめでとう!
昨日から実家の静岡に帰省しています。今日はいい天気だったので、久能に行きました。家康の言葉より・・・

『人の一生は重荷を負って遠き道をゆくが如し、急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。
心にのぞみおこらば、困窮したる時を思ひだすべし。
堪忍は無事長久の基。
怒りは敵と思へ。
勝つことばかり知りて負ける事を知らざれば害その身に至る。
己を責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。』
慶長8年正月15日 家康
人はただ身の程を知れ草の葉の
露も重きは落つるものかな

天候にも恵まれて、とても、いい久能でした。イチゴで有名です。高台から、下をみれば、太平洋が広がり、国道1号線の車はミニカーのごとく。。。世界は広い。人間はいとも、小さい存在なんだろう。。。

自分は神のペンにすぎない・・・にゃんてね。
メイナク族にはしあわせという、言葉がないらしい・・・

僕は、いつも、幸せをもとめて、自分が幸せになりたくて、ハッピーになりたくて、働いて・・・今の現状が幸せかっていうと、幸せなわけで、でも、それでも、足りなくて、何か求めて・・・

結局、何もしていない。

みんなが、一緒。みんなが、一緒。それが幸せ。みんなが幸せ。
そうありたい・・・。
久しぶりに、アンデルセン童話を読みました。みにくいアヒルの子。。。とても、面白いというか、楽しいです。
舘野さんの、ホームページから、ペーストしちゃいました・・・

長坂自然農の会のメンバーでもある作家のおおえまさのりさんが書かれた記事です。ちょっと長いけど、とてもいいので読んでください。

自然の農――白州の田からのメッセージ        山梨日日新聞05-11-1,2,3
     上 「命の営みに寄り添う」――生き方としての農――

 アキアカネが飛び交う青空の下、黄金色に秋の実りを波打たせていた稲穂は今、は
さがけされて、脱穀を待っている。この後、我が家の田んぼは、田起こしされること
なく、そのまま再び水が張られる。
 さまざまな地球環境の汚染が問題になる中、農もまた無縁ではありえず、自分の暮
しぶりの中から出会ったのが自然農だった。スコップと鎌と鍬だけあれば足りて、耕
すこともいらず、自然の営みに寄り添っていけばいいという農法は、作家家業の身に
は、とても魅力的に思われた。
 しかし、そこからが大変だった。自然農をはじめて、自然とは何かを模索する十年
だった。代掻きしないから、田はざる田となって水が抜ける。草も刈るだけで抜かな
いから、あっという間に草に埋もれてしまう。しかも肥料も、もちろん農薬もやらな
い。
 だがそこから学んだことは多かった。はじめた当初は、隣の田んぼのおじさんに言
われたものだった。「こんな農業やるんだったら、恩給貰ってからやるもんだ」と。
だがその内「これは最高の農法や。トラクターも肥料も農薬もいらん。丸儲け」と。
 なるほど、丸儲け?!だと気づかされた次第である。稲や野菜は、それ自身の種子
の内にいのちを宿し、天地自然に育まれて、ぐいぐいと実ってゆく。人にできること
は、ほとんどない。その手助けをすることができるだけである。自然農といえども、
作物を作るのだと、傲慢になってしまっていたのでは、と思う。
 天地自然に生かされている、その恵みを頂くというところから、少しずつ、田んぼ
と向かい合うことができるようになっていったように思う。
 白州の田では今、三反の田んぼと二反の畑を、この地域で活動する地域通貨「湧湧
(わくわく)」の農部会の仲間たちと共に取り組んでいる。春、苗代づくりには、湧
湧のメンバーが子どもたち共々やってくる。冬を越して水を張った田んぼには、蛙の
卵がうようよと盛り上がって浮いている。「これみんな蛙になったら、すごいぞ」と
子どもたちが歓声を上げながら、おそるおそる卵に触れてみる。やがて田にはオタマ
ジャクシやヤゴやゲンゴロウが泳ぎ、コナギやアギナシの水草が繁茂しはじめ、初夏
にはヤゴが羽化しホタルが飛び交う。これらの生態系の巡りに支えられて、ゆっくり
とではあるが、田んぼは、わたしたちの感動と共に、豊かになってきてくれている。
 耕さない田んぼの田植えは、少し勝手が違う。苗を一本一本大地にぐっと潜り込ま
せながら植えてゆく。そして田植えの後は水草刈りに追われる日々がつづくが、それ
も出穂と共に、喜びに変わってゆく。ザクザクと稲を刈る。稲穂の嬉しそうな声が聞
こえてくる。そうした時をみんなで祝い合えるということは幸せである。
 冬には、湧湧のメンバーで、収穫した米で麹を作り、大豆を茹でて、味噌を仕込
み、春を待つ――ここには生き方としての農が、あるように思えるのである。
 
自然の農――白州の田からのメッセージ   
     中 「妙なる畑に立ちて…」――学びとしての農――

 十月八日~十日にかけて、奈良県の桜井市で、自然農を実践する人たちの全国交流
会があり、十四回目の今年は、自然農の提唱者川口由一さんの田んぼと、その学びの
場である赤目自然農塾で開催されるとあって、出かけた。
 川口由一さんは慣行農業に従事していたものの、農薬で体を壊し、その時有吉佐和
子さんの『複合汚染』に出会った。そして農薬や化学肥料によらず、生命に危機を招
かない農を求めて、自然農を提唱するに至った。
 地球という生命圏の営みに目を向けてみると、そこではあらゆる生命が一体となっ
て、いのちを育んでいる。草木みずからが根を張って耕し、そこに様々なバクテリア
や虫が寄生して土壌を豊かにしている。耕すことはそれらの生態系を壊してしまうの
ではないか?
大量の肥料を持ち込んで、大地の持つ生命力以上のものを収奪することは、やがて大
地を壊してしまうのでは?一つを傷つければ、全体が傷ついてしまう。田の外からは
何も持ち込まず、草を刈ってそこに敷いてやる。すると草の亡骸が巡って、肥料とな
る。そしてこの十全な生態系の中で育ったものは生命力も強く、農薬もいらないと。
こうした自然の営みに沿いながら、自然本来の力を引き出そうとする農の実践の中か
ら、耕さず、肥料、農薬を用いず、草や虫を敵とせず、子孫の代まで持続可能な自然
農が見出されてきた。
 桜井市巻向。全国から二百五十名(山梨からも十数名)の参加者が田んぼを囲ん
だ。わたしは、川口さんに出会って十七年目にして、はじめて川口さんの田に立つこ
とができたが、そこには豊かな実りをつけた美しい稲田が広がっていた。二七年間一
度も耕されることのなかった田んぼに手を入れてみる。と、ずずっと手の平がすっぽ
りと田の中にめり込んでいった。稲藁や麦藁、そして草を刈り込んできた田は、亡骸
の層が十センチを超えて、豊かな腐葉土を成していた。
 ともすれば技術論を追い掛けることに汲々としてきたわたしだが、その田を見なが
ら、自然農とは、作物と大地と人の、本来の美しさを在らしめてゆく、大いなる成長
の歩みの中にあるものだと思われてきた。それほどに美しい田んぼであった。田はそ
の人を映し出し、その人の成長を促しさえするようだ。
 翌日は、開所以来十四年目を迎える自然農の学びの場「赤目自然農塾」(名張市)
を訪ねた。里山を集落の道に沿って入ってゆくと、長年放置されてきた三町歩弱の棚
田が広がっていた。そこを借りて開墾し、橋を架け、作業小屋をつくり、猪の柵を巡
らすなどの共同作業をしながら、それぞれが各自の田んぼや畑をもって、自然農を学
んでいる。毎年二百五十名前後の人々が全国から通っている。
 川口さんは自らが田に立つ姿を通して教えられる。交流会で塾生たちは「米づくり
とは自分を育てることです」、「生きて行く上での物差しを与えてもらっている」と
話していた。
 農は彼等にとって、人生の探求の場になっているのだった。学びとしての農がそこ
にあった。


自然の農――白州の田からのメッセージ  
     下 「心の原風景の中へ」――スローライフということ――

 農的な暮しをしたいという若者がわたしたちのところを訪れてくることが多くなっ
てきた。北杜市周辺でも、九七年以来六年間、自然農提唱者の川口由一さんを年四回
招いて、自然農の指導を仰ぎ、現在四十名を超える人々がこの地域で自然の農を実践
している。そしてこうした野菜などを販売する「地給市場」(長坂町)も立ち上がっ
てきている。
 わたしたちは今余りにも、大地から、自然からかけ離れたところで生きているよう
に思える。自然から離れることこそが文明だと、わたしたちは長らく思い込んでき
た。だかそうした大地性の喪失が、若者たちのアイデンティティの喪失をもたらして
きている。自分の立っているところが何処だか分からなくなってしまっている。
 大地は種子を宿し、種子はその内にいのちの夢見を秘め、その夢を実現しようとし
てこの世界に立ち現われてくる。わたしたちもまた、同じなのではなかろうか。内な
るいのちの夢を実現しようとして、生きているのではなかろうか。
 ならば、生きるとは、いのちを離れず、いのちの中心を歩いてゆくことではなかろ
うか。
 そうした欲求が若者たちに農への回帰を求めさせているように思える。
 春、早苗を植える。早苗の内にはカミ(精霊)が宿るといわれる。それこそいのち
の夢見であり、わたしたちはカミという霊性、いのちの夢見を、早苗と共に、一年を
通して、生きてゆく。そうすることで、掛け替えのない、いのちという奇跡を自分の
ものにしてゆくことができるようになってくる。ここにいのちがかくあることこそ、
宇宙で一番の奇跡であると。
 今年も再び、古代米とよばれる黒米の収穫時期がきた。
 黒米は籾が落ちやすいので、稲刈りをした後すぐに、脱穀してやる。トントンと穂
を丸太に打ちつけながら、籾を落としてゆく。トントントントンと穂を打ちつけてい
る内に、時が止まって、永遠の世界に誘われてゆく自分を発見する。縄文からうち続
く八ヶ岳の、いのちの原風景の中にいるかのようである。
 一刻も早く目的に達しようとする暮しではなく、今ここのこの生を十全に味わいつ
くすこと――そこに今日よく喧伝されるスローライフの醍醐味があるように思う。そ
こにこそ、この世界のすべてがあるからである。世界とは、とどのつまり、全宇宙を
宿したわたしに他ならない。世界はわたしにおいて成就するのである。一度トントン
と丸太を叩きながら脱穀してみてはどうだろうか。トントンと穂を叩いていると、夕
焼けがはじまっていった。わたしはもうすっかり夕焼けである。
 自由競争社会の中で、世界はますます暴力化していっているという実感がある。市
場原理に翻弄されることなく、いのちを見ることができるかどうかが、ますます問わ
れている。農を柱として世界を建て直すことが切に求められていると思う。

感動です。僕には、文才がないので、多くの人から、メッセージを頂いています。表現する事の大切さと、難しさ。
今日は、沢庵用の、大根を収穫して、洗いました。充実感があります。季節を感じます。実りの秋です。

 
「あなたが他人に対して尊敬と思いやり
そして温かい心を抱いていれば、
それは気温や空気の香りのように
まざまざと相手に伝わります
そしてあなたの人間関係は肯定的なものとなります」
― ロバート・コンクリン ―

毎朝、毎晩オーナーの臼井さんは、宿泊者を前にシャロムの哲学を語ります。
なぜ、ひとり一人のスピーチに共感するのか?それは、自分の中にある体験に結びつくからだと思います。

「そうそう、それある、ある・・・」って思い出させてくれました。

人生は、どんな人と出会い、どんな人とつき合うかで決まってくるように思います。
結局、人間関係をつくっていくのが人生なのかもしれません。なぜ旅をするのか?
なぜメールを書くのか?なぜブログを書くのか?自問自答すると、
よりよい信頼関係を築いていくため、人として成長するためだと思います。

日常ではない場面で、人が見えてきます。
一緒に、食事をすること、掃除をすること、調理すること・・・何にしても、共同作業を通じて、その人が、見え、また自分が見える気がします。
最近は、ため息が多い自分。息抜きと、前向きにとらえています。
私は幼少期のの頃から、この世の中には全く違った二つの現実があることをはっきりと体験してきました。
その一つは、人生は大変困難で、どんなに頑張っても、努力しても、何もうまくいかないという、現実。
もう一つの現実は、人生はいとも、簡単というもの。何かを思いつけば、必ず実現する。
もちろん、これは何も努力しなくていい、ということではありません。そではなく、むしろ、あなたの人生でこんなに、努力したことがないっていうくらい、一生懸命やります。でも、なぜかそこには、全く新しい宇宙に入ったかのようで、魔法のようにすべてが、美しいのです。うまくいくのです。まるで、全てが繋がっているかのようで、あなたが、何か良いことをしようとする、明確で純粋な意志がある限り、あらゆることが魔法のように、実現するのです。
どうやって芋虫が蝶になるかを、調査し、そのことを物語にしてから、私はこのような、ふたつ目の現実を「バタフライの現実」と呼ぶように、なりました。

今日は、おかしな天気。晴れたり。雨が降ったり。野沢菜を採ってきて、軽く浅漬けにしました。そろそろ、冬の準備。大根も洗わないとって臼井さんは言っています。。。
ついでに、いとこ煮のやり方も習いました。
小豆を、洗って、三倍の水で茹でます。はじめ、蓋を開けておきます。生臭い、においから、甘いにおいに変わってきたら、蓋をします。火の強さは、弱火で、特にかえません。
2,3回、ビックリ水をいれます。やわらかくなるまで。沸騰しているところに、冷たい水を入れることによって、小豆がびっくりして、柔らかくなります。
やわらかく、煮えたら、塩を入れます。そして、カボチャをいれます。塩は、少々。そして蓋をして、火がとおるまで煮ます。

カボチャの切り方から、教わり、とても良い学びでした。僕はいつも、醤油、塩、酒、みりんで、味付けしていました。でも、今日は塩だけ。とても、おいしい、いとこ煮ができました。やさしい、人柄がでる、ゆっくり、スローで、ピースな感じです。穏やかに作れば、穏やかな、味に。本当に、勉強です。
自分のペース、人のペースとの調和。

マクロにかかわらず、菜食についてや、ヴェジタリアンについての、考え方、陰陽、面白い話ができました。人との会話、世の中、不思議な縁です。

人に教えること、教えられること。どっちも良い勉強。でも、教えることの方が難しいような。
さえちゃんから、ごま塩を教えてもらいました。

ごまと塩が、4たい1。塩を先に炒る。すりこぎで、する。
黒ごま(洗い)を炒って、親指と薬指でつぶした時につぶれる感じ。
するときは、油がでないように、自然に、やさしく、混ぜる感じ。

塩と、ごまの比率は体調、季節、病気によって変えてもいいかも。
 
なにげない・・・ごま塩。。。自分で作ってみると、ひとつ、ひとつが、大切に、大事においしく感じます。ごまも、塩も、何ひとつ、自分じゃ、作れませんが・・・。食事すること、感謝します。
「 愛は、それが現実となるためには、犠牲が必要です。それは、痛みを伴うモノで、私たちの自我をからっぽにするものでなければなりません。」

現代の文化では、何でも持つことができること、自分たちの権利は要求しければならないこと、また正しい科学技術によってあらゆる痛みや問題が克服しうるのだと信じさせます。しかし、犠牲に対するわたしたちの姿勢は、このような現代の考えとは相いれません。もし、貧しい人たちと共に、苦しみを受けなければ、世界の苦しみを救うことなどできないって、私たちは、知っています。

病院や精神病棟など、あなたの周りに孤独な人たちがいます。家のない人たちも一杯います。彼らの存在が知られているのは、ただ単に、いまいる路上によるだけです。でも、彼らは、皆、誰かの子どもであったはずです。かつては、誰かを愛していたはずです。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなた方もお互いに愛し合いになさい」

愛が存在するために、それは犠牲、特に自己犠牲によってはぐくまれなければならないのです。苦しみは、それ自体では、何の意味もありません。けれども、それが(たまねぎ)の受難と分かち合ったモノであれば、最も美しい、愛のしるしとして、素晴らしい贈り物となります。

人々によいことを、もたらすために必要なものは、何でも、私は喜んで与えなくてはなりません。このことは、痛みをもたらすところまで、喜んで与える事を私に要求します。さもなければ、私に、真の愛はなく、身のまわりの人たちに、平和をもたらすどころか、正義にそむくことにさえなってしまうのです。

今日は、まとまった雨です。雨も嫌ではありません。雨音を聞きながら、ぼーっとしちゃいます。自然の流れの中で、暮らす。そんな、大げさのことではない気がする。ただ、あるがまま、なすがまま、、、。自然が自然でない、このご時世。それが難しくもあり、貴重であり、守らなければいけないのかなっても、思う。また、時代の変化と、共に、僕らも、生活も、変わっていくうんだろうって。変わらないモノと、変わり続けるモノ。
今日は、友達が遊びにきてくれたので、ラート・ドウ・ラ・サヴール に行ってきました。普段は外食する事がほとんどないですが、友達がご馳走していくれるというので、はいきってでかけあした。外はあいにくの、天気・・・。
去年の九月にできたばかりの新しい店で、気になっていたんですが、なかなか機会がなく、やっと行くチャンスになりました。
店の中は、とてもオシャレ。
コースで2000円、3500円などとあり、僕らは、2000円のコース。

・ゴボウのスープ、カプチーノ風
・信州牛の赤ワイン煮
・地元産こしひかりの米粉パン
・ローズマリーのアイスクリーム(下にコーヒーのババロア?)(上にマカロン?)
・コーヒー

久しぶりに、ゆっくりと時間をかけて、友達と楽しく瞬間を過ごしました。友達は今、普段、営業をやっています。仕事中には絶対これないって・・・普段は松屋とかで、注文してから30秒!食べるのに5分。今日は2時間くらい、座っていました。。。

たまには、外で食べるのもいいもの。
今日の雨で、また一段と、冬に近づいた気がします。
ありがとうございました!おいしかったです。

ラート・ドウ・ラ・サヴール www.art-saveur.com/
8日は、アキールさんの誕生日。
リンゴとカボチャのタルトを作ってみました。
リンゴと、高野豆腐!(水でもどしでから)をリンゴジュースて煮て、フィリングします。塩を加えて甘みをひきだす?感じ。砂糖など、甘みを加えなくても、甘いです(甘いと感じます)。カボチャは塩で和えて、蒸し煮。それからつぶして、豆乳を加えてのばします。
生地は、地粉と、全粒粉と塩、油、水。オーブンで焼きます。
それに、煮たリンゴを入れて、ペースト状にしたカボチャをぬって、焼いて完成。

季節の野菜、果物を使って簡単にできるものです。サツマイモ、カボチャ、クリ等。リンゴ、自然の甘みは、本当に甘く、優しいです。
飾らない、シンプルな、お菓子が好きです(っていうか、おしゃれなのが、作れないだけですが・・・)。

手作りの良さっていうのを、感じます。(感じてほしい・・・我ですね、欲ですね)
「すべての愛の行いは平和のための仕事です。たとえ、どんなにそれが小さくても」
「大きな事を出来る人たちはたくさんいます。でも、小さな事をしようとする人は、ほんの一握りしかいないのです」 テレサ

今日は、千葉からの菜の花生協の人たちの貸し切り。三郷の大倉さんのりんご園のお客さん。
昼間は、玄春さんの一周忌。本当に一年はあっというま。
朝、霧がすごく、きれい。
夕方にはhiroさんも、合流。
「自分自身のために生きるのではなく、他の人々の為に生きることによって、イエス(ためねぎ)と同じように、わたしたちもまた全世界のものです。主の喜びは、私たちの力です」テレサ
喜びに満ちた心は、愛に燃えている心の当然の結果です。
喜びを保つのはことは、いつも難しいです。だからこそ、私たちが身に付くように努めて、心の中ではぐくんでいかなければならないものです。
私たちは、多くを与えることはできないかもしれません。でも、愛に満ちた心からわき出る喜びになら、いつでも与えることができます。感謝を示す一番の方法は、全てを喜びとともに受け入れることです。喜びはとても伝染しやすいです。
他人の苦しみに同情するより、隣人の成功を喜ぶ方が難しいです。そしてまた、喜びが感じられない空虚なモノごとに対しては、不満を感じるようにもなるでしょう。
喜びは、私たちの人生の要のひとつにすぎません。
わたしたちは「愛の喜びを本当経験したことがあるだろうか」と自問すべきです。真の愛をいうのは、痛みを伴い、私たちを傷つける愛です。それでも、喜びがもたらされます。そのために、わたしたちは、愛する勇気を求めなければ、ならないのです。

聖者には、なれません。いつも、人をうらやみ、ねたみ、嫉妬して、そして自分をも責める。それが、人間かにゃ?(イエス!)
今日も無事終わった事に感謝。日々の積み重ねです。

「最後に空港で君の手を握って、抱き合って、別れた後、飛行機に乗ったとき、離陸して高く高く上がり、群青の成層圏の空を見たとき、僕はこの星が好きだと思った。それから、どうしてそんな気持ちになったのか、ゆっくりと考えてみた。飛行機の中って、時間がたっぷりあるからね。そうして、ここが君が住む★だから、それで、好きなんだって気がついた。

他の★には、君がいない。」

池澤 なつき

人恋しい季節です。(って、いつもかも・・・)。多くの人の出会いの中で人をすきになり、嫌いになり、憎み、苦しみ、歓び、笑い、悲しみ、・・・でも、また、好きになって・・・繰り返す。日々の成長ってなんだろうって、ふと、考えてしまう、今日この頃。


多くの人が子供時代の夢を忘れてしまうのは、それを共有する
相手がいなくなるからです。現実的なことを話すほうが格好いい
し、大人っぽく見えるからです。

現実的なものは目標です。目標をまことしやかに話すと大人っぽ
いですが、それではロマンがなくなります。夢とは、実現するのが
難しくても、そこにワクワクする要素があるものなのです。


夢は、その人を情熱的にし、パワフルにします。

夢を熱く語り合える友人がいるかどうかが、人生の質を決めると
いえるでしょう。子供のように、いっさいの判断や批評なしで友人
と夜通し語り合うのは楽しいものです。

本田健著「きっと、よくなる!」 

最近、あまり、感情をおもてにだしてないようなきがする。喜怒哀楽。人間関係において、自己主張するところと、ひくところ。他人ばかり気にして、自分を殺している?それで、うまくいけば、そうとも限らない。ストレスを貯めないこと。
自分が変われば、世界が変わると、いうけれど・・・
前向きに。前向きに。be happy.
「ちょっとしたほほえみがどれだけ役に立つのか、私たちは決して分からないでしょう」テレサ
平和は微笑みからはじまります。一日に、五回、ほほえみなさい、自分が、笑顔なんてむけられないって思う人にも。平和の、為に。
お互いにほほえみあいなさい。でも、それはいつも簡単ではありません。そのような、ときには、祈ります。

世界にはたくさんの、苦しみがあります。物質的な苦しみ、飢餓や家のない苦しみ、さまざまな病気などから、もたらされます。しかし、最も大きな苦しみは『孤独』です。誰からも愛されていないと、感じることや、友がいないということ。どんな人間も、いつか経験することになるかもしれない最もひどい、病は『自分が誰にも必要とされていない存在と感じる事』 です。それを、ますます実感します。
人と接するとき、心から誠実であるように、またお互いにありのままを、受け入れらる勇気です。
大事なのは思いやりを持って行動すること。能率よく働くことができるって、誇るに足る仕事ができるのは、自分だけだと思ってはいけません。自分たちの最善をつくせばいいのです。そして、他人もまた、それぞれに、最善を尽くしているのだと、信じることです。
そのうえで、また小さいことに、いつでも誠実にあるようにつとめなさい。小さいことにこそ、あなたの力が発揮されるのです。
私たちは、みずからの行動を通して、互いに愛することによって、神の愛のめぐみを増やし、さらに大きな神の愛をもたらすのです。

雨がしんしんと、降っています。今年の秋は暖かいらしいです。霜がくるのが遅いらしく、紅葉も遅いらしい。文化の日で、それなりに、忙しい一日です。
本日の気分は「寝坊した朝顔・・・」。
明日は、なんだろうか・・・。



生死 しょうじ

 生きていることと、死んでいくこととは、朝がくるのと
夜がくるのと同じように、一枚の大きなブッダのてのひらの撃
ちの出来事なのだが、ぼく達無知の者どもには、死んでいくこ
とや、夜が来ること(孤独な出来事)だけが、ブッダに関係す
る出来事、つまり仏教的な出来事であるかのような錯覚があり
ます。
 ごく楽は死後にいく場所であるという観念や、夜一人でしん
しんと孤独になった時に、何となく宗教的な気分になったりす
ることに、そのことは象徴されていると思います。
 物質と意識は等質のものであり、いずこかの究極において、
絶えず五感されているという事実は、いずれ証明されずにはお
れないと思いますが、目下のところは直感として、私達が、生
きていることも死んでいくこともブッダの大いなるてのひらの
内の出来事であると実感すると、私達の人生は奈良の大仏さん
の庭でしかにせんべいを食べさせているかのように、安心なも
のに変わります。鹿がばりばりとせんべいを食べて、日がくれ
て、また夜が明けるだけなのです。

ステキな、メッセージをありがとうございます。
今があるから明日があるというのはなんとなくわかる気がするんです。
僕も「何やっているんだろう」「これが私のやりたい事なのか」と最近よく思いま
す。
でも、今までやってきた事が無駄だったと思った事はないし、これから先いろんな事
をやっていきたいと思う。
日々自分の考えも変わっていっているのも実感する。
これから何があるかわからない。
どう自分の考えが、進む道が変わっていくかわからない。
けど、前があるから後がある。
今日こう考えたから、明日からこうなる。
うーん、表現するのむずかしいなあ。
不安でもなく、不満でもなく、何かが心にあるのは僕も同じです。

明日も平和でありますように。。。

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